二階雨戸は、かなり傷んでいる。
二階西南角の床の間付の部屋が、西田の「書斎」であり、そこから外廊下に出て、西田は廊下を右往左往しながら思索を進めた。その姿は、近隣の住民には奇異なものに見え、外彦氏たちは友達から冷やかされたという。(西田外彦著「父」と「父の住んだ家」を参照)
今回の訪問の際には、雨戸が一枚を除き全て閉められていたが、西田が居住していたときには、昼は、すべて開放されていた筈で、外廊下からは、如意が岳の大文字、前の小川、そして、おそらく、京都帝国大学の建物や吉田山が見えていたはずである。(
動画リンクの撮影のために実際に外廊下を歩いてみたが、十分な広さと長さがあり、歩きながら思索を進めるには適当だったろう。
左側が雨戸、右側な室内。雨戸には硝子戸などはなく、雨戸を開けると外廊下は外界にむき出しになる。そのためか、手すりは、かなり風化が進んでいるが、外廊下の床板はしっかりしており、殆ど軋むことさえない。
手すりの風化の様子。
松の後ろに見える切妻の建物が西田が借りていた家。
その前の、むくりのある屋根を持つ門は、この貸家のための門。
その門の背後にみえる、入母屋の建物が母屋。
澤村家当主澤村豐氏のお話では、昔は一乗寺道もなく、出町に続く道(京大清風荘、旧西園寺家別邸l北の道と思われる)も半分は
川だったとのこと、また、敷地の東南にも橋があったとのことで、恐らく、その橋がかかっていた小川が暗渠化したのが、次の画像にみえるマンホールと思われるが、
結論を出すには古い地図をあたる必要がある。しかし、小川レベルまで記載された地図は、まだ見つけていないため、詳細は不明。
西田の借家の門前から二階の外廊下を写したものを2つ。
三宅剛一は、道から、正面に、この二階の外廊下に西田の姿を見たと書いている。
これが道沿いに進んでいるときに正面に見えるという意味であれば、清風荘横の道。
つまり、現在の一乗寺道と考えるのが妥当だろうが、西田がこの家を借りていたころには、
一乗寺道はなかったので、調査が必要。