西田幾多郎

[史料を訪ねて]一覧

落ち着いた風情の西田幾多郎博士記念館(寸心荘)

西田幾多郎−学習院大学史料館と寸心荘

公開日
2017/03/30
取材日
2015/08/19(学習院史料館)、2015/09/25(寸心荘)

京大以前と晩年の西田を物語る史料群

西田幾多郎は、1909年(明治42年)7月31日に辞令がおりてから翌年7月までの1年間、学習院(現学習院大学)で独文主任教授として教鞭を執った。また、西田の孫の幾久彦さんが、1949年(昭和24年)に新制学習院大学の第1期生として入学している。こうした縁があり、幾久彦さんから学習院へ、1968年(昭和43年)には父・外彦氏(西田の次男)の図書が、さらに1976年(昭和51年)には鎌倉の遺宅が寄贈された。この家は、西田が京都帝大を定年退官した後に得たもの。京都と鎌倉を行き来する生活を送り、1945年(昭和20年)、信州への疎開を考えていた矢先、この鎌倉の家で亡くなった。

西田幾多郎博士記念館(寸心荘)

幾久彦さんが寄贈した家は『西田幾多郎博士記念館(寸心荘)』と名付けられ、学習院の教職員や学生の研究思索の場として活用されることになった。「寸心」とは、自分の気持ちをへりくだっていう言葉だが、西田が金沢の第四高等学校教授時代に師事していた禅の師匠、雪門玄松老師 > から与えられた居士号であり、西田はこの言葉を好み、自らの雅号として用いたものである。この『寸心荘』を開館するにあたって、学習院では西田にまつわる資料を広く収集。『学習院史料館』にて保存されることとなった。その後も収集を続け、2017年3月現在で585点の資料を収蔵している。

そういうわけで、『学習院史料館』と『寸心荘』を実際に訪ね、史料を拝見することにした。

学習院史料館

まずは2015年8月19日(水)、東京都目白の学習院大学キャンパス内にある『学習院大学史料館』を訪問。日本にはこういった史料館を持つ大学が少なかったが、学習院はその先駆けとなり、1975年(昭和50年)に史料館を設置している。ちなみに、学習院大学は西田が同大に赴任する直前に、四谷から目白に移転。現在の史料館の建物は移転当時に図書館として建築されたものを活かしており、クラシックな洋館の趣が非常に好ましい。

対応してくださったのは、同館のキュレーターである長佐古美奈子さん。長佐古さんは学習院の学生だった時から、全国に散逸している皇族・旧華族の資料調査や目録作成などを行っていた行動力のある女性。長佐古さんの熱心な研究の成果や働きかけを周囲の教職員や大学が理解してくれたおかげで、キュレーターや助教が常駐する現在の体制ができたらしい。同じように京都学派や西田の史料が全国に散逸していて、あまり重要視されていない現状に歯がゆさを感じていることをお話しすると、とても共感してくださった。

学習院大学史料館 キュレーターの長佐古美奈子さん

長佐古さんはこの史料館を実質的に運営されており、定期的に様々な展覧会や講座も開催している。2001年度(平成13年度)・2002年度(平成14年度)には、西田資料群の整理・研究が特別研究の課題となり、その成果の集成として目録が刊行され、さらに特別展示・講座が開かれた。西田が奉職したのはわずかな期間であるが、やはり学習院の歴史のひとコマとして、注目すべき存在なのだろう。長佐古さんは西田を専門に研究されている方ではないが、一般的な評伝などで学習院勤務の1年がなおざりにされがちであることにもどかしさを感じているらしく、【西田幾多郎と学習院−明治四二年学習院の諸様相】という論文の中で「“西田幾多郎と学習院”はもっと評価されるべき関係であることが検証できた」と述べられている。また、西田に関わる学習院の史料に関して、たとえば、史料館に収蔵していない西田の奉職時代の記録の在処まで完全に把握されていて、非常に優秀なキュレーターだと感じた。

さて、『学習院史料館』に収蔵されている西田関係の史料は、西田が差し出した書簡(岩波書店発行『西田幾多郎全集』未収録のものを含む)や西田宛ての書簡をはじめ、原稿・書・写真類など。また西田の弟子間や関係者間の書簡もある。西田は自分宛の書簡を読み終えると破り捨ててしまうことが多く、残されている史料は少ない。しかし西田が差し出した書簡の多くは、宛先人の家で大切に保管されてきたようだ。最も多く収蔵されている西田差し出しの書簡は、高坂正顕宛のもので206件(2017年3月現在)。

たとえば、これは高坂が刊行した『歴史的世界−現象学的試論』への称賛を表した手紙。後半では、田辺元が『哲学研究』に掲載した論文についての所感が述べられている。

『歴史的世界−現象学的試論』への称賛を表した手紙

これは、鈴木大拙の手紙を同封した書簡。大拙からの「高野山大学へ出講してもらえないか、高坂にお願いしてほしい」という依頼文と、それについて西田が「迷惑かもしれないが、とにかく紹介だけ申し上げる」と書いた手紙が添えられている。

鈴木大拙の手紙を同封した書簡

また、高坂に次いで多いのが柳田権十郎宛の書簡(81件、同現在)。柳田は戦後にマルクス主義に転向したが、戦前は西田に心酔していた哲学者。この訪問時は、田辺が柳田に宛てて出した手紙(つまり関係者間の書簡)を見せていただいた。見る者に鋭い印象を与える田辺の筆跡と、西田の晩年の特徴であるやわらかな丸みのある筆跡を見比べてみるのもおもしろい。

柳田権十郎宛の書簡

特筆すべきは、これらの史料の一つ一つの保存状態が素晴らしいこと。古史料用の透明フィルムケース、中性紙の箱などを使って大切に保管されている。こうした古い史料への保管・保存に力を入れる姿勢は、学習院が皇族・華族のためにつくられた大学であるという歴史に由来しているのだろう。

寸心荘

『学習院史料館』を訪ねた約1カ月後、2015年9月25日(金)に鎌倉市稲村ケ崎の『寸心荘』へ向かう。この訪問にあたって学習院大学とのやり取りを調整してくださった、名和達宣(なわ たつのり)さんが同道。名和さんは真宗大谷派の僧侶で、同親鸞仏教センター研究員(当時。現在は同教学研究所研究員)でもある。

かつて西田が佇んだ位置にある橋

まず、名和さんから教えてもらったのが、この風景。江ノ電の稲村ケ崎駅から『寸心荘』へ向けて西に歩き、さらに川沿いに上流へと山腹を登るのだが、その起点のようなところ。西田が稲村ケ崎の海岸近くにある橋でたたずむ写真が残されているのだが、それがこの場所にあたるらしい。

沿道に看板が立つ『寸心荘』への坂道

沿道に看板が立つ『寸心荘』への坂道は、かなり急傾斜だった。『寸心荘』を管理されている学習院大学講師の岡野浩さんに門扉の鍵を開けていただき、敷地内へ。ここは一般に公開されているわけではないのだが、鍵をかけておかないと入り込んでしまう観光客がいるのだという。

西田幾多郎博士記念館(寸心荘)

西田が1933年(昭和8年)から1945年(昭和20年)まで住んだ『寸心荘』は大正・昭和時代の家で、簡素だがどこか懐かしい風情がある。西田幾久彦さんは、じつはこの遺宅を取り壊すつもりだったようだが、西田の弟子である下村寅太郎に諭されて学習院に寄贈したのだと、生前の幾久彦さんご本人から電話で伺った。

旧西田邸の居間

まずは1階の客間から見学。西田の筆による額が飾られている。座卓は西田の生前から使われていたらしいが、塗り直しているとのこと。 床の間には、安曇野にある西田幾多郎の碑文の拓本が掛けられていた。

床の間

さらに床脇には、「あたごやま いる日の如くあかあかと もやし尽くさん のこれる命」という有名な和歌をしたためた色紙が。この和歌は50代の頃に詠んだらしいが、当時としては晩年の始まりという年齢だったのかもしれない。西田が京都に住んでいた頃、周囲は田畑ばかりで、西の愛宕山がよく見えたのだろう。「愛宕山に入る夕陽が赤々と燃えているようだ。私ももう老年だが、残りの人生を学問に打ち込んで燃やしつくそう」という意味あいだと考えると、還暦を過ぎた私自身も、この歌の言わんとすることが実感できる。

西田の和歌「あたごやま いる日の如くあかあかと もやし尽くさん のこれる命」

1階の洋間は「記念室」として、西田の頭部ブロンズ像(高田博厚 作/かほく市の『西田幾多郎記念哲学館』にも同じものがある)や、西田を取り巻く人物相関図、ゆかりの地の写真などの史料を展示。書棚もいくつかあり、西田の蔵書などが並べられている。

色々な史料が置かれた記念室

ここには多くの史料が残されていたようだが、『寸心荘』は海岸から数百mの場所にあるため、貴重史料が潮風の影響で傷むのではないかと学習院大学が危惧して、重要なものはすべて目白の学習院キャンパスに移された。そういうわけで『寸心荘』には一部の史料のみが残されていたのだが、じつはその中から非常におもしろいものを、名和さんが発見している。

真宗大谷派の僧侶、名和さん

西田は届いた手紙やはがきを捨ててしまうことで有名だが、蔵書への書き込みが少ないことでも知られている。その西田が、浄土真宗の教えが書かれた『聖典 浄土真宗』の中の『教行信証』などに、多くの書き込みをしていた。それらが『寸心荘』に残されていたのである。従来、西田の真宗への関わりは『歎異抄』が中心だと考えられてきたらしい。しかしこの蔵書の発見によって、晩年の西田が、親鸞聖人の著書である『教行信証』にも大きな興味を示していたことが実証されたと言えるだろう。

名和さんが発見した西田の書き込み

ちなみに、名和さんの論文、西田幾多郎晩年の思索と『教行信証』を送っていただき、なおかつ「西田の書き込みかどうかを判断する材料として、京都学派アーカイブにある西田の直筆を活用した」と教えていただいたことから、名和さんとの交流が始まった。こうしたところで役立ったという報告をいただくと、アーカイブに携わっている者としては大変にうれしい。名和さんは、その後、続編の論文、西田幾多郎と『教行信証』を発表している。

最後に、記念室の上部にある2階の書斎も見学させてもらった。西田が実際に使っていた座卓が今も残されている。残念ながら訪問した日は雨模様だったが、晴れていれば窓から海を見渡せるらしい。

2階の書斎からの眺め、あいにくの雨。

西田が実際に使用していた座卓

管理者の岡野さんは、史料の重要性をよく認識されている哲学研究者である。会話が非常に弾んだため、とても名残惜しかったのだが、いつまでもお邪魔しているわけにはいかないので、『寸心荘』を辞去し、稲村ケ崎駅へと向かった。

向かって左が管理者で哲学研究者の岡野さん、右が名和さん

本取材にご協力いただいた方

編集部一同、ご協力に心より感謝申し上げます。
学習院大学史料館 公式サイト
西田幾多郎博士記念館(寸心荘)

  • 長佐古 美奈子 様

    長佐古 美奈子 様
    学習院大学史料館 キュレーター

  • 岡野 浩 様

    岡野 浩 様
    寸心荘管理者、哲学研究者

  • 名和 達宣 様

    名和 達宣 様
    真宗大谷派の僧侶


本探訪レポートは、訪問者 林 晋の口述を元にして、林監修のもとでライター高橋順子が原稿を作成しました。

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